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 昭和15年当時は、戦争のさなかでありました。

お年頃で縁談の聞き合わせによると、『ここら一帯が、山口さんの山で、3月になると近隣の村上げて桃の花見に行くそうな』ということでした。現在は、大阿太高原の梨として有名ですが、元は桃山が始まりで、道際の電柱にその名残がとどめられています。

 いよいよ縁談もまとまり、おばぁちゃんは荷車に乗ってお嫁に。 宴の後、帰ってゆく荷車の音が次第にガラガラ、ごろごろ、カラコロ、からから、コロ、、、と小さくなってゆくのが、切なかった・・・。

先々代の房吉(祖父)は、田圃や山持ちのいわゆる旦那さんで、明治の中頃から松山を開墾して桃を作り始めた人です。まだまだあら地ばかりのところを、一鍬一鍬開墾して行ったそうでそれはそれは、大変な作業であったそうです。

嫁いだころの農作業でしんどかったのは、谷に水源地として池を掘ってあり、一斗缶をオーコ(天秤棒)で担いで水を汲み上げたりすることです。畑につくころには、いっぱい入っていた水もこぼれてしまい、何十回も往復しなければならず、足を棒にして作業したものでした。何をするにしても、手作業ばかりで、大勢のひとを雇っての毎日でした。

其のころから(真田園)の屋号で手広く農作物の販売をしていたようです。

房太郎(義父)さんのときに、オンヅモリで市振る《借金がかさみ家財などを競売する》ことになりましたが、山を開きなおしたり、畑を買い戻したりと苦労の連続であったようです。

A戦時中〈銃後の守り)
夫(房良)が昭和15年に出征して、中支(インドシナ)からビルマに行き昭和21年に帰還しました。

その間、ウタさん(義母)と私とで、梨畑を守りました。

梨の木を何本か切り倒して、麦と芋を作っておりました。収穫した梨は、供出させられてました。米はずっと買っています。

五條市阿太峰には、離陸だけの特攻飛行場が作られたのですが、戦後に見に行ったらうちの松山の木は伐採されていて、林道に敷き詰めてありました。 特攻隊員のかたがたが出兵の前日には、うちにお風呂をもらいにきていたのを、今も思い出します。

B戦後から現在へ
終戦後、夫は、戦争の後遺症なのか、よく発熱したり、夢にうなされていました。月日とともに梨作りに精進するようになってまいりました。梨の木を植えなおし丹精こめて、育ててゆきました。

長男が、昭和41年に田原本農業高校を卒業してから、農業を継いでくれました。やはり嬉しかったです。梨畑には、試験地があり、ウタさんは栽培研究に大変熱心でした。普及所の先生も、よく来てくれましたし、そこの長男だからあとを継ぐのは当たり前という感じでした。

農作業も機械化が進み、すべてが手作業のときに比べて、楽にはなってきたと思います。特に、消毒は、たいへんでした。この辺は、井戸水が枯れやすく、飲み水以外は、屋根中の雨水をタンク(5m*5m*3m)にためて使っていました。

また、古新聞や雑誌を使ってなしの袋を冬の間にみんなで作ったものです。パラフィンの袋は、にかわで、紙袋は、小麦粉で貼りました。今はみんな買っています。

 通信販売の様子も、大変な変わりようだったです。

私が来たころは、注文がきたら、木箱を作って、一個づつ包んだ梨を、木綿(モクメン・木のくず)で巻いて詰めてゆき、レッテルを貼って荒縄で縛りました。荷札にあて先を筆で書いてくれる人が別にいました。ダンボールになって、マジックで書くようになったのは、私の代です。荷作りがすむと、今度は、国鉄便(現JR)で発送します。戦前は馬力で、戦後は、リヤカーで吉野口駅まで、運んだものです。自動車に変わったときには、家まで集荷に来てくれましたので、楽チンでした。

 今の時代は、機械が増えて体は楽になりましたが、農業は、やっぱり人の気持ちが行き届いてこそ、おいしいものができてくると思うので、、心をこめて仕事をするのが肝心と思います。

おわり。

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